池田模範堂 100年の歴史

創業から100年間、「変身への挑戦」を胸に、私たちは失敗を恐れずチャレンジを繰り返してきました。
その挑戦によって生まれた、
成功への軌跡をご紹介します。

1909 創業

配置薬から始まった池田模範堂

初代・池田嘉市郎が家庭配置薬販売を開始

1929 新生

海外挑戦の末につかんだ、
新生ムヒ

海外進出への挑戦が今のムヒをつくるきっかけとなる

発売当初ムヒはワセリン軟膏だった。新たな市場を求め、ムヒを持って台湾に渡ったが、日本より気温の高い台湾ではワセリンが溶けて軟膏が分離してしまった。この出来事を機に、よりよい処方を目指し何度も実験を繰り返す。そして、1931年に新処方の白いクリーム状「ムヒ」を発売し、爆発的ヒットとなる。

1947 確立

執念の広告出稿

マスメディアへの積極投資でブランド確立

戦前は二代目池田嘉吉自らがオープンカーに乗ってムヒの宣伝をする。
戦後もムヒというブランドを世に知ってもらう為に新聞、ホーロー看板、ポスターなどの広告宣伝を始める。その中でも新聞広告は当時割り当てが難しかったが、交渉の末に大手企業の一流商品と同じ掲載スペースを獲得することに成功。
その後、テレビCMにも早期段階から参入。

池田模範堂の広告に対するこだわりは、今もなお続いている。池田模範堂の広告に対するこだわりは、今もなお続いている。

苦肉の策!?
ムヒで果樹園を育てる

「虫さされ薬」で夏は大忙しだが、秋冬の期間は仕事がなく果樹園を始める。最初に植えたのは桃の木、そしてリンゴ。社員の作ったリンゴジュースやジャムを販売し好評を得る。

1967 開拓

新薬開発へ踏み出す

事業を拡大するために病院向け医療用医薬品の開発を始める。
設備が整った新しい研究所で池田模範堂にしかできない独創的な技術開発を目指す。

1975 想い

三代目の想いをかたちに

完全週休二日制を実施

社員の休息と将来への勉強の時間を持たせるために、世間でもまだ完全週休二日制を取り入れている企業が少ないこの年から開始する。
「努力なき永年勤続者は新入社員に劣る」「会社の成長は従業員の成長から」と社員の学びと成長を重んじていた三代目池田嘉道の想いがつまった制度である。

1983 挑戦

新事業への船出

健康食品、医療器具の新事業部「ソネックス」を設立

当時巻き起こった健康食品ブームに乗っかり新事業部を立ち上げた。カルシウムウェハース・寒天麺などを次々と発売。その中でもカルシウムウェハースは20億円を売り上げる大ヒット商品となった。ソネックス後期には介護用品の販売も開始した。

1996・1997 覚悟

選択と集中 其の1

池田模範堂としてこれからの進むべき道を考えて事業を絞る。
1996年に創業以来続けてきた家庭用配置薬から撤退。
続けて、1997年に新薬開発から撤退。
OTC医薬品開発の道を極めることを決意する。

2006 覚悟

選択と集中 其の2

「肌を治す」ことに集中すると決め、健康食品・介護用品のソネックス事業部を事業譲渡する。

2006 信念

強い信念が実を結ぶ

売れないと叩かれた製品が大ヒット

「デリケアエムズ(2006年)」、「ヒビケア(2007年)」を発売。当時、どちらの商品も売れないと社内からは発売に反対の声があがっていた。しかし、開発者や支援者の強い信念のもと販売にこぎつけた。今ではどちらも池田模範堂を代表する商品となっている。

2010

ムヒからMUHIへ

長年親しまれてきた「ムヒ」のロゴを変えること。それは会社の一大決心であった。
「ムヒ」から「MUHI」へ。大きく変身することを決めた会社の強い信念がつまっている。また「肌を治すチカラ」というスローガンには、かゆみだけでなく、肌全般に事業領域を拡大するという、池田模範堂の挑戦の決意が込められている。

2014 不屈

涙の販売中止

潜在ニーズを意識した商品「ムヒホワイティ」、「リペアクト」を販売したものの売れ行きは思わしくなく、じくじたる思いで販売を中止。しかし、これでめげないのがイケダイズム。更なる一番手商品開発に向け組織体制から見直しを図り、再スタートを切った。

2015 そして、新たなステップへ 池田模範堂の次なる100年に向けてあくなき挑戦は続いていく。

2015 そして、新たなステップへ

塗るのではなく、飲むかゆみ止め「ムヒAZ錠」、
口の中にスプレーする「イビキスト」など
今までにない商品群の発売。

池田模範堂の次なる100年に向けてあくなき挑戦は続いていく。